大谷泰重

 
凡例
大谷 泰重
時代 安土桃山時代 - 江戸時代前期
生誕 天正15年(1587年
死没 寛文2年9月6日(1662年10月17日[1]
官位 法印[1]治部卿[2]
主君 尊純法親王
氏族 在原姓大谷氏[3]
父母 大谷泰増[1]大谷吉継?[2]
泰祐[1]重政[2]
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大谷 泰重(おおたに たいちょう)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての青蓮院坊官

生涯

大谷氏は在原業平の末裔を称する家門で、門跡寺院である青蓮院の坊官を代々務めた[3]。なお江戸時代中期に福井藩が編纂した藩士系図集『諸士先祖之記』によると、父は豊臣秀吉に仕えた大谷吉継だという[2]華頂要略』では鳥居小路経孝の子で大谷氏の養子とされる[要出典]。自身は父祖同様青蓮院宮に坊官として仕え、寛永元年(1624年法眼に、寛永8年(1631年法印に叙されている[1]。子孫も青蓮院坊官を相伝し、中には粟田流の書家として知られる大谷永庵がいる[4]。また『諸士先祖之記』によれば子の重政が福井藩に仕官したという[2]

脚注

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出典

  1. ^ a b c d e 『地下家伝』, p. 1504.
  2. ^ a b c d e 福井県文書館 2015, §大谷吉継の孫・重政.
  3. ^ a b 『地下家伝』, p. 1502.
  4. ^ 『地下家伝』, p. 1503.

参考文献

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