吉原宿

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曖昧さ回避 吉原遊廓」とは異なります。

座標: 北緯35度9分44.585秒 東経138度41分15.795秒 / 北緯35.16238472度 東経138.68772083度 / 35.16238472; 138.68772083

歌川広重『東海道五十三次・吉原』

吉原宿(よしわらしゅく、よしわらじゅく)は、東海道五十三次の14番目の宿場である。現在の静岡県富士市に位置する。

陸上交通や水運の拠点であったほか、富士参詣の宿駅としても機能した。

概要

吉原宿は当初現在のJR吉原駅付近にあった(元吉原)が、1639年寛永16年)の高潮[1]により壊滅的な被害を受けたことから、再発を防ぐため内陸部の現在の富士市依田原付近に移転した(中吉原、現在の八代町付近)。しかし1680年延宝8年)8月6日の高潮[1]により再度壊滅的な被害を受け、更に内陸部の現在の吉原本町(吉原商店街)に移転した。このため原宿 - 吉原宿間で海沿いを通っていた東海道は吉原宿の手前で海から離れ、北側の内陸部に大きく湾曲する事になり、それまで(江戸からに向かった場合)右手に見えていた富士山が左手に見えることから、"左富士"と呼ばれる景勝地となった[2]。往時は広重の絵にあるような松並木であったが、現在は1本のの木が残るのみである。

生贄郷

吉原宿一帯は「生贄郷」と呼ばれていた。『駿河志料』には、以下の文言がある[3]

稚贄屯倉此地より吉原驛に至り、里俗生贄郷と称す、古への稚贄屯倉の地なるべし(中略)近世吉原驛此地など生贄郷と称し、池贄と書けり

このように吉原驛(吉原宿)周辺は生贄郷と呼称されていた。吉原宿は生贄郷の呼称の要素をなす存在であり、例えば能「生贄」は吉原宿と富士の御池が舞台の地である。

能「生贄」の謡曲には以下のようにある[4]

昔よりこのかた吉原の宿に、今夜泊まりたる旅人は、何れも今日の生贄の御神事に御会い候ぞとよ
駿州富士の郡下方の郷、大蛇の御池にして、贄の少女を供へ奉る所なり

能「生贄」の舞台の地であることは知られていたようであり、紀行文等にも確認される。

川合はし、此川下を三股といふ。生贄のうたひに作りし所也(貝原益軒『吾嬬路記』[5]

この川合はし(川井橋)は吉原一帯を流域とする和田川に架かる橋であり、和田川は別名を牲川と言った。

最寄り駅

JR東海道本線岳南電車岳南線 吉原駅又はジヤトコ前駅吉原本町駅

隣の宿場

東海道
原宿 - 吉原宿 - 蒲原宿

脚注

[脚注の使い方]
  1. ^ a b 石渡明. “東海道五十三次と地震・津波・噴火”. 日本地質学会. 2017年5月23日閲覧。
  2. ^ 片平博文「名所「左富士」の成立」『鴨東通信』第110号、思文閣出版、2020年、8-9頁。 
  3. ^ 『駿河志料』巻之五十一富士郡一「青嶋」
  4. ^ 校註日本文学大系 1927, p. 567-573.
  5. ^ 紀行文集22 1930, p. 21.

参考文献

  • 国民図書株式会社『校註 日本文学大系 第21巻』1927年。 
  • 柳田國男『紀行文集 第22篇』博文館〈帝国文庫〉、1930年。 

関連項目

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外部リンク

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