ポアンカレ写像

力学系理論におけるポアンカレ写像(ポアンカレしゃぞう、: Poincaré map)とは、連続力学系を離散力学系に簡約化する方法の一つ[1]。周期軌道やカオス的軌道のような、何度も回り続けるような流れを調べるに効果を発揮する[2]

アンリ・ポアンカレによって、天体力学の研究の中で導入された[3]。ポアンカレ写像のアイデアは、1881年から1886年にかけて発表された「微分方程式によって定義される曲線について」の中に見られる[4]

定義

一般の場合

n 次元ユークリッド空間 n 上で、独立変数t ∈ ℝ従属変数x ∈ ℝn とする次のような自励系常微分方程式ベクトル場)から生成される流れ φ(t, x) について考える[5]

d x d t = f ( x ) {\displaystyle {\frac {dx}{dt}}=f(x)}
(1 )

ここで、φ(t, x) は点 xt 時間後に写る点を与える写像である[6]。さらに、n 内でベクトル場 f横断的な n − 1 次元超曲面 Σ を考える。Σf に横断的とは、Σ 上の任意の点 ξ で、ベクトル f (ξ)

f ( ξ ) n ( ξ ) 0 {\displaystyle f(\xi )\cdot n(\xi )\neq 0}
(2 )

を充たすことをいう[7]。ここで、n(ξ)ξ における Σ直交するベクトルを、 はベクトルの内積を表す[7]

ξ ∈ Σ から出発する軌道が、τ 時間後にまた Σ 上に戻って来ると仮定する。すなわち、 ある τ = τ(ξ) > 0 があって、φ(τ, ξ) ∈ Σ である[5]Σ 上に戻って来ることは複数ありうるので、それらのうちの最小時間を τ(ξ) とする。このときの写像 Σ ∋ ξφ(τ(ξ), ξ) ∈ Σポアンカレ写像という[5]ξ を改めて x で表し、特にポアンカレ写像を

P ( x ) = φ ( τ ( x ) ,   x ) {\displaystyle P(x)=\varphi (\tau (x),\ x)}
(3 )

によって定まる写像 P で表す[8][7][9]。一般に、ポアンカレ写像の定義域Σ 全体ではなく、Σ真部分集合になる[10]

ポアンカレ写像 P帰還写像(英: return map、英: first-return map)とも呼ばれる[5][11][12][13]。横断的な曲面 Σポアンカレ断面(英: Poincaré section[14][8]切断面(英: cross section[14][15]横断面(英: cross section[9][12]と呼ばれる。流れによってΣ に戻って来る最小時間 τ帰還時間と呼ばれる[13][8]

周期軌道の場合

Σ 上から出発して Σ 上に戻って来る軌道があればポアンカレ写像は定義されるが、特に流れが周期軌道(閉曲線となる軌道)を持つときは、その周期軌道の近傍でポアンカレ写像の存在が次のように保証される[16]

式 (1) で定まる力学系に周期軌道が存在し、その周期軌道を γ とし、γ の周期を T とする。周期軌道上の点 x0 ∈ γ と交わるように n − 1 次元曲面 Σ を取る。Σx0γ と横断的に交わるように取れば、Σ はベクトル場 f に横断的なポアンカレ断面になる[17]

x0 から出発する軌道は時間 T 経過後に x0 に戻って来る[15]。また、f (x)C r 級(r ≥ 1)であれば、φC r 級である[7]。よって、x0 に十分近い点 x ∈ Σ から出発する軌道は、x0 の近くに戻って来る[15]。そのため、Σ 上で x0 の近傍 U ⊂ Σ を適当に取れば、U 上の任意の点 x から出発する軌道が Σ と再び交わるようにできる。こうして構成できる U から Σ への写像 Pポアンカレ写像という[15]

利点

任意の常微分方程式系に対してポアンカレ写像の構成できる一般的な方法は存在しない[18]。ほとんどの場合で、ポアンカレ写像の具体的な形を書き下すのは非常に難しく、普通は不可能といってもよい[19][20]。ポアンカレ写像の構成は、問題に応じて試行錯誤で行う必要がある[18]。しかし、それでも以下のような利点がポアンカレ写像には存在する。

ポアンカレ写像は、微分方程式などによって与えられる連続力学系ないし流れの問題を、次元が1つ低い相空間上の写像の問題に置き換える手法である[21]。扱う問題の次元(変数)を1つ減らせるのはポアンカレ写像を考える第一の利点で、問題の研究を進めやすくする[22][18]。また、微分方程式(流れ)を扱うよりも写像を扱う方が一般的には容易いのも、ポアンカレ写像が有利な点である[22][23]

ポアンカレ写像では、元の連続力学系の軌道に対し、ポアンカレ断面以外の点は無視する[24]。これにより、処理するデータ量を圧倒的に少なく抑えることができる[22]。このようにポアンカレ写像は元の軌道のごく一部のみを観察する手法であるが、それでもなおポアンカレ写像の振る舞いに元の軌道の特徴(周期性、安定性、カオス性など)を残すことができる[25]。後述のように、特に連続力学系の周期軌道では、その性質の多くをポアンカレ写像によって表現できる[15]

ストロボ写像(非自励系のポアンカレ写像)

ポアンカレ写像と同じく連続力学系を離散力学系に縮約する方法として、適当な時間間隔 T で点 x の変化を追う写像が考えられる。このような写像をストロボ写像[26]時間 T 写像[27]という。ストロボ写像という名は、周期的にストロボを当てるように軌道を見るような方法であることに因む[26]

力学系自体も周期 T の周期性を持つとき、時間間隔 T のストロボ写像(時間 T 写像)はポアンカレ写像と本質的に同じである[26]n 上の時間 t を陽に含むような非自励系常微分方程式

d x d t = f ( t ,   x ) {\displaystyle {\frac {dx}{dt}}=f(t,\ x)}
(4 )

において f(t, x) = f(t + T, x) が充たされるとき、この系は時間 t について周期 T の周期性を持つ[28]。流れ φ を、点 x における時刻 t0 も明記して φ(t, t0, x) と書き表すとする。このとき t = T, t0 = 0 として定まる写像 φ(T, 0, x) は、拡大相空間 n × 𝕋, (𝕋 = ℝ/Tℤ) 上で t = 0 ∈ 𝕋 で切断面を取ったポアンカレ写像に相当する[29][30]

出典

  1. ^ 森・水谷 2009, p. 99.
  2. ^ Strogatz 2015, pp. 305&dash, 306.
  3. ^ Lorenz 2001, p. 45.
  4. ^ 齋藤 1984, pp. 3, 263–264.
  5. ^ a b c d 坂井 2015, p. 263.
  6. ^ 荒井 2020, p. 40.
  7. ^ a b c d ウィギンス 2013, p. 66.
  8. ^ a b c 千葉 2021, p. 196.
  9. ^ a b ロビンソン 2001, p. 275.
  10. ^ 國府 2000, p. 10.
  11. ^ 今・竹内 2018, p. 214.
  12. ^ a b 伊藤 1998, p. 88.
  13. ^ a b ロビンソン 2001, p. 276.
  14. ^ a b 今・竹内 2018, p. 213.
  15. ^ a b c d e 丹羽 2004, p. 118.
  16. ^ 伊藤 1998, pp. 87–88.
  17. ^ 今・竹内 2018, pp. 213–214.
  18. ^ a b c ウィギンス 2013, p. 65.
  19. ^ Hirsch; Smale; Devaney 2007, p. 226.
  20. ^ Strogatz 2015, p. 306.
  21. ^ アリグッド、サウアー、ヨーク 2012, p. 54.
  22. ^ a b c ベルゲジェ、ポモウ、ビダル 1992, p. 60.
  23. ^ 荒井 2020, p. 166.
  24. ^ 松葉 2011, p. 37.
  25. ^ 松葉 2011, pp. 30, 37.
  26. ^ a b c 井上・秦 1999, p. 75.
  27. ^ アリグッド、サウアー、ヨーク 2012, p. 48.
  28. ^ 丹羽 2004, p. 126.
  29. ^ 丹羽 2004, p. 127.
  30. ^ 柴山 2016, p. 62.

参照文献

  • 坂井 秀隆、2015、『常微分方程式』初版、東京大学出版会〈大学数学の入門 10〉 ISBN 978-4-13-062960-7
  • 久保 泉・矢野 公一、2018、『力学系』オンデマンド版、岩波書店 ISBN 978-4-00-730742-3
  • 國府 寛司、2000、『力学系の基礎』初版、朝倉書店〈カオス全書2〉 ISBN 4-254-12672-7
  • 高橋 陽一郎、2004、『力学と微分方程式』初版、岩波書店〈現代数学への入門〉 ISBN 4-00-006875-X
  • S. ウィギンス、丹羽 敏雄(監訳)、今井 桂子・田中 茂・水谷 正大・森 真(訳)、2013、『非線形の力学系とカオス』新装版、丸善出版 ISBN 978-4-621-06435-1
  • 千葉 逸人、2021、『解くための微分方程式と力学系理論』初版、現代数学社 ISBN 978-4-7687-0570-4
  • 荒井 迅、2020、『常微分方程式の解法』初版、共立出版〈共立講座 数学探検 15〉 ISBN 978-4-320-11188-2
  • 伊藤 秀一、1998、『常微分方程式と解析力学』初版、共立出版〈共立講座 21世紀の数学 11〉 ISBN 4-320-01563-0
  • 今 隆助・竹内 康博、2018、『常微分方程式とロトカ・ヴォルテラ方程式』初版、共立出版 ISBN 978-4-320-11348-0
  • 丹羽 敏雄、2004、『微分方程式と力学系の理論入門 ―非線形現象の解析にむけて―』増補版、遊星社 ISBN 4-7952-6900-9
  • C. ロビンソン、國府 寛司・柴山 健伸, 岡 宏枝(訳)、2001、『力学系 上』、シュプリンガー・フェアラーク東京 ISBN 4-431-70825-1
  • 國府 寛司、2000、『力学系の基礎』初版、朝倉書店〈カオス全書2〉 ISBN 4-254-12672-7
  • E. N. Lorenz、杉山 勝・ 杉山 智子(訳)、1997、『ローレンツカオスのエッセンス』、共立出版 ISBN 4-320-00895-2
  • 齋藤 利弥、1984、『力学系以前 ―ポアンカレを読む―』第1版、日本評論社〈数セミ・ブックス 9〉
  • 森 真・水谷 正大、2009、『入門力学系 ―自然の振舞いを数学で読みとく―』、東京図書 ISBN 978-4-489-02050-6
  • Steven H. Strogatz、田中 久陽・中尾 裕也・千葉 逸人(訳)、2015、『ストロガッツ 非線形ダイナミクスとカオス ―数学的基礎から物理・生物・化学・工学への応用まで―』、丸善出版 ISBN 978-4-621-08580-6
  • 井上 政義・秦 浩起、1999、『カオス科学の基礎と展開 ―複雑系の理解に向けて―』初版、共立出版 ISBN 4-320-03323-X
  • K.T.アリグッド;T.D.サウアー;J.A.ヨーク、津田 一郎(監訳)、星野 高志・阿部 巨仁・黒田 拓・松本 和宏(訳)、2012、『カオス 第1巻 力学系入門』、丸善出版 ISBN 978-4-621-06223-4
  • 柴山 允瑠、2016、「重点解説 ハミルトン力学系 ―可積分系とKAM理論を中心に―」、『臨時別冊・数理科学2016年12月』(SGCライブラリ 130)、サイエンス社、ISSN 0386-8257
  • ピエール・ベルゲジェ;イヴェ・ポモウ;クリスチャン・ビダル、相澤 洋二(訳)、1992、『カオスの中の秩序 ―乱流の理解へ向けて』、産業図書 ISBN 4-7828-0068-1
  • 松葉 育雄、2011、『力学系カオス』第1版、森北出版 ISBN 978-4-627-15451-3
  • Morris W. Hirsch; Stephen Smale; Robert L. Devaney、桐木 紳・三波 篤朗・谷川 清隆・辻井 正人(訳)、2007、『力学系入門 原著第2版 ―微分方程式からカオスまで』初版、共立出版 ISBN 978-4-320-01847-1

外部リンク

ウィキメディア・コモンズには、ポアンカレ写像に関連するカテゴリがあります。
  • Poincaré return map - Encyclopedia of Mathematics
  • Poincaré Map - MathWorld
  • 「ポアンカレ写像」 - 機械工学事典(日本機械学会