ハシュリ

ハシュリ

ხაშური
Skyline of ハシュリ
ハシュリの旗
ハシュリの公式印章
印章
ハシュリの位置(ジョージア内)
ハシュリ
ハシュリ
座標:北緯41度59分51秒 東経43度35分55秒 / 北緯41.9975度 東経43.5986度 / 41.9975; 43.5986
ジョージア
(グルジア語版) シダ・カルトリ州
地区 ハシュリ地区
設立 1872年
標高
700 m
人口
(2014)[1]
 • 合計 26,135人
等時帯 UTC+4 (ジョージア時間)
郵便番号
5700
市外局番 (+995) 368
ウェブサイト www.khashuri.org.ge
地図北緯41度59分51秒 東経43度35分55秒 / 北緯41.9975度 東経43.5986度 / 41.9975; 43.5986

ハシュリグルジア語: ხაშური[xɑʃuri]グルジア語ラテン翻字: Khashuri)は、ジョージア中部の都市。ジョージアで9番目に人口の多い市町村であり、ハシュリ地区の行政中心地となっている。シダ・カルトリ平野(グルジア語版)スラムラ川流域に位置する。海抜は700メートル。

ハシュリの名は、1693年の文献にて初めて登場する。現代のハシュリの町は1872年に小規模な停車場として設立され、カフカス総督(英語版)ミハイル・ニコラエヴィチ大公にちなんで「ミハイロヴォ」と名付けられた。1918年に「ハシュリ」と改名し、1921年に「都市」としての地位が認められた。1928年から1934年まではヨシフ・スターリンにちなんで「スタリニシ」として知られた。19世紀にトビリシポティを結ぶ鉄道が開通して以降、ハシュリは徐々に交通結節点としての地位を確立していった。

語源

ジョージアの著作家スルハン=サバ・オルベリアニ(グルジア語版)は、自身が編集した辞書において、次のようの記述している。

ハシュリ: 鹹水塩。水や湖などからもたらされる、及び、それに類するもの。ミョウバン、バヴルキ(ბავრუკი)、硝石、など。

ハシュリの北東には「ガリバ=ゲレ」と呼ばれる、塩気を含んだ湖沼がある。人々はこの水をリラクゼーションに用いていた。ハシュリという名はもともと、集落を示しているのではなく、単なる場所の名前であったと考えられている[2]

歴史

ハシュリについて言及がある最初の歴史的文書は1693年に作成された、「ザアル・アバザゼ」の名前が記された証書である。この証書は、エレクレ1世(グルジア語版)の母エレネ・ディアサミゼ(ელენე დიასამიძე, エレネ女王)がザアル・アバザゼに対して与えたものである。この証書によると、ザアル・アバザゼの先祖はかつて王宮への忠実な奉仕により証書を与えられていたが、エレネ・ディアサミゼはこの証書を更新し、新たな慈悲を与えたことを読み取ることができる[3]

ジョージアの地理学者で歴史家のヴァフシティ・バグラティオニは著書『ジョージア王国の記述(グルジア語版)』の中で、ハシュリの地理的な位置に関する興味深い情報を述べている。彼はこの著書の中で「スラミ(グルジア語版)」の水の記述をしており、次のように言及している。

オシアウリ(グルジア語版)やハシュリの水は、油分を含んでおり、これは東方にあるスラミ(グルジア語版)ケメルティ(グルジア語版)の水から繋がっている。[4]

イオアネ・バグラティオニ(グルジア語版)は著書『カルトリ・カヘティの記述』において、スラミの水と、峡谷の村々に関する説明をしている。この文脈において、ハシュリは居住村として言及されている[5]。またイオアネ・バグラティオニは同時に、1813年から1828年に編纂した百科事典『カルマソバ(グルジア語版)』においても、ハシュリに関する大きな情報を提供している[6]

ハシュリ駅に展示されている、ジョージア最初の電気機関車。

トビリシ=ポティ間の鉄道建設以降、ハシュリは成長路線へと入った。1872年から1918年までの間、この町はミハイル・ニコラエヴィチ大公にちなんで「ミハイロヴォ」と呼ばれた。1921年以降は「都市」としての地位を維持している。

1921年、赤軍のジョージア侵攻(グルジア語版)において、ハシュリ近郊で激しい戦いが繰り広げられた。3月4日、赤軍とジョージア民主共和国の軍隊との間の戦闘において、赤軍の先陣部隊およそ3千人から4千人がミハイロヴォ駅の付近まで接近。3月5日、赤軍はジョージア軍の陣地に向けて攻撃を開始。ジョージア軍は赤軍の攻撃を撃退し、同日夕方に守備部隊が反撃を開始。最終的に、赤軍の歩兵旅団3個と騎兵連隊1個が撤退した。このジョージア軍の戦果により、トビリシを占領していたソビエト軍の司令官は、和平交渉の実施を決定した。だが3月6日の夜、ジョージア軍のアレクサンドレ・コニアシヴィリ(グルジア語版)少将が謎の理由によって離任し、西方へと後退した。これによりジョージア軍のギオルギ・クヴィニタゼ(グルジア語版)最高司令官は撤退を余儀なくされた。一方、体勢を立て直した赤軍は3月6日のうちにハシュリを占領し、次いでスラミ隧道を奪取した[7]。ハシュリは1921年から1930年まで、ゴリ郡(ロシア語版)ハシュリ地区の中心地であった。

名所

  • 聖洗礼者イオアネ教会 (ハシュリ)(グルジア語版)
  • 聖バルバレ教会 (ハシュリ) (ხაშურის წმინდა ბარბარეს ეკლესია)
  • 聖エリア教会 (ハシュリ) (ხაშურის წმინდა ელიას ეკლესია)
  • 聖マリネ教会 (ハシュリ)(グルジア語版)
  • 聖ニコロズ教会 (ハシュリ)(グルジア語版)
  • 使徒イオアネ教会 (ハシュリ)(グルジア語版)
  • ハシュリ塔(グルジア語版)
  • ハシュリ地方伝承博物館(グルジア語版)
  • ハシュリ地区図書館(グルジア語版)

姉妹都市

ハシュリの姉妹都市は、次の通り[8]

参考文献

  1. ^ “Population Census 2014”. www.geostat.ge. National Statistics Office of Georgia (2014年11月). 2016年6月2日閲覧。
  2. ^ ხაშურის რაიონის წარსულიდან, ხაშური, 1981 წ. გვ. 3
  3. ^ ხაშურის რაიონის წარსულიდან, ხაშური, 1981 წ. გვ. 3-4
  4. ^ ქართლის ცხოვრება, ტ. IV, თბ., 1973, გვ. 377
  5. ^ ხაშურის რაიონის წარსულიდან, ხაშური, 1981 წ. გვ. 4
  6. ^ ხაშურის რაიონის წარსულიდან, ხაშური, 1981 წ. გვ. 5
  7. ^ Soviet-Georgian War and Sovietization of Georgia, II-III. 1921
  8. ^ “ხაშურთან დამეგობრებული ქალაქები”. www.newposts.ge. 22 იანვარი, 2019閲覧。

外部リンク

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