ステファン・ウロシュ5世 (セルビア皇帝)

ステファン・ウロシュ5世
Стефан Урош V
セルビア帝国皇帝
在位 1355年 - 1371年

出生 1336年
死去 1371年12月2日/4日
埋葬 ヤザク修道院
配偶者 アンカ(ニコラエ・アレクサンドル娘)
子女 無し
家名 ネマニッチ家
王朝 ネマニッチ朝
父親 ステファン・ウロシュ4世ドゥシャン
母親 ヘレナ
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ステファン・ウロシュ5世セルビア語: Стефан Урош V1336年 - 1371年12月2日/4日)は、セルビア帝国の王(在位:1346年 - 1355年)、および皇帝(在位:1355年 - 1371年)。

生涯

ヤザク修道院に安置されているステファン・ウロシュ5世の棺

ステファン・ウロシュ5世はセルビア皇帝ステファン・ウロシュ4世ドゥシャンとブルガリア皇帝イヴァン・アレクサンダルの姉妹ヘレナの間に生まれた唯一の子である。

1346年にウロシュ4世がセルビア皇帝に即位した際、ウロシュ5世は皇帝に次いで高い地位に置かれていたセルビア王に戴冠され、セルビア帝国の共同統治者に任命された。

1355年にウロシュ4世が没した後、皇帝に即位して単独統治者となったウロシュ5世はすでに成年に達していたが、母親と廷臣の影響下に置かれていた。

ウロシュ5世は父が築いた帝国を維持する力量を持たず、各地の王族や有力領主が帝国の支配から離れて活動する[1]。セルビア帝国は地方領主の集合体に変化し、何人かの領主はウロシュ5世の主権を認めていなかった。

1356年にセルビア帝位を獲得しようと試みた叔父のエピロス専制侯シメオン・ウロシュ・パレオロゴスへの対応が、ウロシュ5世が直面した最初の問題だった。ウロシュ5世はシメオン・ウロシュをエピロス・テッサリアに追い出すが、シメオン・ウロシュは領地で「ローマ人とセルビア人の皇帝」の称号を使用していた。シメオン・ウロシュが皇帝を自称したことで、ウロシュ4世が征服した地域はウロシュ5世の統制下から離れていった。

ウロシュ5世は母のヘレナから帝国を維持する助けを受けられず、ヘレナは半独立状態にあったセラエのデスポット・ヨヴァン・ウグリェシャ(英語版)に協力していた。ウグリェシャの他に独立した勢力には、ヴァルダル川左岸を支配する甥のデヤノヴィチ兄弟(en)[1]、ツルナゴーラ(モンテネグロ)からアルバニアにかけての地域に独立政権を建てたバルシッチ家(en)[2]、北セルビアを支配するラザル・フレベリャノヴィチ[2]、西マケドニアを支配するプリレプの専制侯ヴカシン・ムルニャヴチェヴィチ[1]らがいた。1365年にヴカシンはウロシュ5世の共同統治者としてセルビアを支配する。ウロシュ5世の治世の末期に残されていた帝国の直轄地は、シャル山脈(英語版)ダニューブ川の間の地域に限られていた。

1360年代からのオスマン帝国バルカン半島での拡大に対し、各地で独立したセルビア諸侯は互いに争うことを止め、反オスマン連合を結成した[3]。1371年にセルビア貴族の連合軍がマリツァの戦いでオスマン軍に敗れてウグリェシャ、ヴカシンが戦死し、同年12月にウロシュ5世は子を遺さず没した。

死後、ウロシュ5世はセルビア正教会によって列聖された。遺体はフルシュカゴラ(英語版)のヤザク修道院(en)に埋葬されている。

ウロシュ5世の死後にセルビアの最有力者となったラザル・フレベリャノヴィチは皇帝、王の称号を用いず、公(Knez)を名乗った[3]。ラザルは領地の割譲と引き換えにボスニア王国に助けを求め、1376年にボスニア王スチェパン・トヴルトコ1世(英語版)が「セルビア人、ボスニア、沿岸地方の王」として戴冠した[4]1389年コソボの戦いの後にセルビアはオスマンに臣従するが、1459年のスメデレヴォの陥落まで、ラザルの一族がセルビアを統治した。

脚注

  1. ^ a b c 金原保夫「中世のバルカン」『バルカン史』収録(柴宜弘編, 世界各国史, 山川出版社, 1998年10月)、98頁
  2. ^ a b クリソルド『ユーゴスラヴィア史』増補版、111頁
  3. ^ a b クリソルド『ユーゴスラヴィア史』増補版、112頁
  4. ^ クリソルド『ユーゴスラヴィア史』増補版、73頁

参考文献

  • スティーヴン・クリソルド編『ユーゴスラヴィア史』増補版(柴宜弘、高田敏明、田中一生訳, 恒文社, 1993年3月)
  • John V.A. Fine, Jr., The Late Medieval Balkans, Ann Arbor, 1987.
  • Translated with small changes from small encyclopedia "Sveznanje" published by "Narodno delo", Belgrade, in 1937 which is today in public domain.
  • This article is written from the point of view of that place and time and may not reflect modern opinions or recent discoveries.

外部リンク

  • ウィキメディア・コモンズには、ステファン・ウロシュ5世 (セルビア皇帝)に関するカテゴリがあります。
先代
ステファン・ウロシュ4世ドゥシャン
セルビア皇帝
1355年 - 1371年
次代
-
セルビア君主
セルビア侯国(英語版)
ヴラスティミロヴィッチ家

ヴィシェスラヴ(英語版)c.780 / ラドスラフ(英語版)800-822 / プロシゴイ(英語版)822-836 / ヴラスティミル(英語版)c.830-850 / ムティミル(英語版)850-891 / プリビスラヴ(英語版)891-892 / ペータル(英語版)892-917 / パーヴル(英語版)917-921 / ザハリヤ(英語版)921-924 / チャスラヴ927-960

東ローマ帝国支配969-976

ドュクリャ(英語版)
ヴォイスラヴリェヴィッチ家

ヨヴァン・ヴラディミル(英語版)992-1016 / ステファン・ヴォイスラヴ(英語版)1018-1043 / ミハイロ(英語版)(大公)1050-1077, (王)1077-1081 / コンスタンティン・ボディン(英語版)(王)1081-1101

ラシュカ
ヴカノヴィッチ家

ヴカン(英語版)1083-1112 / ウロシュ1世(英語版)1112-1145 / ウロシュ2世(英語版)1145-1162 / ベロシュ(英語版)(王)1162 / デサ(英語版)1162-1166 / ティホミル(英語版)1166-1168 / ステファン・ネマニャ1168-1171

セルビア王国
セルビア帝国
ネマニッチ朝

ステファン・ネマニャ1171-1196 / ステファン・ネマニッチ1196-1228 / ステファン・ラドスラヴ1228-1233 / ステファン・ヴラディスラヴ1233-1243 / ステファン・ウロシュ1世1243-1276 / ステファン・ドラグティン1276-1282 / ステファン・ウロシュ2世ミルティン1282-1321 / ステファン・コンスタンティン1321-1322 / ステファン・ウロシュ3世デチャンスキ1321-1331 / ステファン・ウロシュ4世ドゥシャン(王)1331-1346, (皇帝)1346-1355 / ステファン・ウロシュ5世(王)1346-1355, (皇帝)1355-1371

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セルビア専制公国(英語版)
ラザレヴィチ家

ラザル・フレベリャノヴィチ1371-1389 / ステファン・ラザレヴィチ(英語版)1389-1427

ブランコヴィチ家

ジュラジ・ブランコヴィチ(英語版)1427-1456 / ラザル・ブランコヴィチ(英語版)1456-1458 / ステファン・ブランコヴィチ(英語版)1458-1459 / スティエパン・トマシェヴィチ1459

オスマン帝国支配1396-1878

セルビア公国
オブレノヴィッチ家
カラジョルジェヴィッチ家

アレクサンダル・カラジョルジェヴィッチ1842-1858

オブレノヴィッチ家

ミロシュ・オブレノヴィッチ1世(復位)1858-1860 / ミハイロ・オブレノヴィッチ3世(復位)1860-1868 / ミラン1世1868-1882

セルビア王国
オブレノヴィッチ家

ミラン1世1882-1889 / アレクサンダル1世1889-1903

カラジョルジェヴィッチ家

ペータル1世1903-1918

※1918年、セルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国成立
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